リノ・エアレースの思い出
1977年の初渡米でリノ・エアレースを訪ねたのは
古い飛行機のレースなんか長くは続かないと思ったからだ。
現地で知り合ったリノ常連のプレスの人たちからは、
「新しいパーツもどんどん作ってんだから」と笑われた。
確かに40年もたった今もレースは続いている。
当時でも、日本から100人は来ていると聞いて驚いた。
まだ成田空港が開港する前のことだ。
西海岸往復の格安航空券は大卒初任給の2倍近かった。
僕は工事現場で半年バイトしてやっと旅費をためたのだが
十代の実家暮らしでなかったら、とても無理だったろう。
お金のある人ってたくさんいるんだなあと思った。
僕は食事がわりにリンゴで飢えをしのぐような旅だった。
そこで知り合ったFさんはF1クラスに参戦を予定していた。
そのために中古のレーサーを買ったが、
練習飛行の最中に墜落して亡くなった。
後に奥さんが開いた店のオープニングパーティーでは
大学を卒業したばかりだった僕も末席につかせてもらった。
1991年には、僕たちも金を出しあってリノに参戦した。
それが日本からの初参加ということになるが、
初挑戦をしたのは亡くなったFさんということになる。
やはりFさんの奥さんに挨拶した方がいいか相談しようと
1977年に会った常連カメラマンさんに電話したら、
本人はいなかったけど事情はよく知っている奥さんが出て
いまさら蒸し返さない方がいいだろうといわれた。
僕たちは前年の優勝機を買ったが、ヤバい飛行機だった。
クロモリのフレームには大きなクラックが入っていたし、
タブのワイヤーはヨレヨレで昇降舵がフラッターを起こした。
本当は改造までしたかったけど、修理が精一杯だった。
パイロットも不安そうだったけど、本番では優勝できた。
「前年の優勝機を買って優勝してもなあ」
予想通りそんな批判をするヤツは後を絶たなかったが、
前年のタイムを上回っての優勝だ、文句あるか。
まあ、勝っていなかったら、「よくがんばったな」とか
言ってもらえたのかもしれないけど、世の中そんなもん。
その後、常連カメラマンさんにはおっかない顔で
「おまえらよりも先に挑戦したヤツがいたんだからな」と。
そんなことは百も承知だから事前に電話したのですが・・・
といったら常連さんは「むう」という感じで黙ってしまった。
そのへんの話は奥さんから伝わっていなかったらしい。
写真のスキャンなんかしているせいで、
なんだか、いろいろ面倒くさかったことが思い出される。
ちなみに、このときの個人的な持ち出し金額は
1995年の零戦のときよりもはるかに大きかったけど、
「新車買った方がよかったかな」とは思っていない(笑)。
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