夏休み明けじゃない
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ついに我が家にあるすべてのポジのスキャンを終えた。
まだ、あちこちに取り残してあるネガとかあるし、
出版社に置いてる大量のポジも見て見ぬフリをしているが、
我ながらよくやったなーと思う。
ただ、過去1年以上、家にいるときはずっと響いていた
スキャナーの駆動音がなくなって少し落ち着かない。
東京だから車の音とかは常にしているのだけど
それとは異質の「静けさ」にまだ慣れないでいる。
たぶんスキャンした画像の整理分類まで終わる頃には
この状態にも再適応できるのだろうけど、
まだ手をつける覚悟はできていない。
いやー、しかし、すごい偉業ですよ、本当にそう思う。
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退役が近いIBEXのCRJ200。
現在残っているのは1機のみ。
あとは胴体の長いCRJ700のみとなるが、
両機の違いは胴体の長さだけではない。
性能に影響する大きな違いは前縁スラットの有無。
スラットのついたCRJ700の進入姿勢はやや頭上げ。
進入速度も遅くなって、撮影も楽になっている。
異様に小さかった水平尾翼も大型化した。
J-AIRのCRJも退役は時間の問題。
ぎりぎりになって、あわてませぬよう。
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「新千歳に着きました。雲べったり」と親分から電話。
「札幌丘珠は、ほぼ快晴ですよ」といったら、
「このくらいの距離でそんなに違いますか」と驚いていた。
なぜ晴れているのか、まだよく理解していないらしい。
簡潔に説明したら、電話を切られた。
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仕事カメラをデジタルに移行したのは2005年のことだ。
性能的にはもう少しなんとか・・・と思っていたけど、
A380のお披露目が屋内イベントと知り、
渡航前日にヨドバシカメラにEOS20Dを買いに行った。
高感度性能はフィルムとどっこいでよくなかったけど、
人工照明下ではホワイトバランスが調整できるのが有利。
コンパクトデジカメはすでに10年くらいは使っていたから
そのあたりの優位性は理解していた。
もうひとつ、デジタル化に猶予がなかった理由は
9-11テロ以降の空港でのX線検査の強化だ。
たとえば鉛入りの保護バックに入れたとしても、
中味が確認できるまで強度を高める装置ができていたし、
実際に強いX線で感光してしまったという報告もあった。
それは特にアメリカの取材ではかなり深刻な脅威だったし、
何度も乗り継ぎをするような取材では泣きそうになった。
デジタル一眼にかえてそうした心配はなくなったけど、
最初はカメラとしての使い勝手がトホホで
やっぱりしばらくは泣きそうな日々が続いた。
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去年の夏のことだが、関空にお面が置かれていた。
和紙工芸のお面の展示の一環として、
記念撮影にどうぞという親切な企画だが・・・
バイクタクシーのヘルメットと同じように
かぶってしまえば平気かなーと思ったけど
かぶらなかった。
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「ちゃんと撮影しに来るんでしょうな」と電話。
取材の確認にしては、少しドスがきいている。
「テルテル坊主がわりなんだから来ないと困ります」
僕の日頃の行ないのよさも、ついにここまでの威光か。
「でも、そっちには悪いのが何人いるんです?」
個人的にはこれも「かなりいい天気」なのだけど
親分が納得してくれるかどうか。
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2歳以下の乳幼児連れで旅客機に乗るときには、
子供の航空券は無償だけれども座席も確保されない。
子供は親のヒザの上に抱っこするのが基本だ。
そしてシートベルトをするときには、
子供も一緒にシートベルトをしてはならない。
少し前にも話題になっていたけど、飛行機の常識だ。
まず親が普段通りにシートベルトを締めたうえで、
子供はしっかりと抱いておけと指示される。
ま、それでは緊急時には子供は助からんだろうとは、
CAもうすうす気づいているだろうけど言わんよね、わざわざ。
シートが壊れるような衝撃ならあきらめるしかない。
しかしシートは前方向16Gの動荷重にも耐えられる。
そして、この荷重までは乗客も生存の可能性が高い。
しかし体重10キロの子供は16Gで160キロにもなる。
とても親の腕では安全に支えきれないだろう。
ではどうすればいいのか。
ちゃんと子供用にも1席確保して(運賃を払って)
FAAなどで認可された後ろ向きチャイルドシートを使う。
NTSB(米運輸安全委員会)はそのように推奨している。
貧乏人には厳しい話だけど、
だから自動車のように義務化はされていないし、
航空会社の対応もまちまちなのだろう。
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いよいよフィルムのスキャンも先が見えてきたので
本気で整理の方法を考えないとならない。
テーマごとに分類していくか、撮影日ごとに分類するか。
でも撮影日なんか、ぜんぜんわからんのもあるし。
ネガからスキャンした画像とポジからスキャンした画像は
別モノとして分けるかゴッチャにするか、
カラーとモノクロについてはどうするかという問題もある。
とりあえず手をつけながら考えるという手もあるが、
現状でスキャンしたデータ量は2TBを軽く越えている。
1カット平均10MBくらいのサイズだから、
単純計算で20万カット以上はスキャンしたことになる。
実際に数える気にもならない数だ。
「とりあえず」にしても、手をつけるには相応の覚悟がいる。
まだ覚悟がない(涙)。
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関西国際空港が開港した1994年に、
仙台空港は新しい(現)ターミナルビルを着工した。
全面的に完成したのは3年後の1997年。
エプロン側に大きなガラス面を設けた吹き抜けの空間に
関空ターミナルビルの影響が強く感じられたが、
展望デッキがないというクソなところまで一緒だった。
ところが仙台空港は2010年に展望デッキを新設した。
上の写真は2001年に撮影したものでノッペリしているが、
いまは白い矢印のあたりに展望デッキが作られている。
構造上、そんなことができるのかと驚いたが、
東日本大地震の揺れにも耐えたから大丈夫なのだろう。
仙台空港の展望デッキは当初は有料だったが、
昨年7月から無料化された。そんなところも素晴らしい。
2011年の東日本大地震の津波被災前の記録として、
2001年に上空から撮った仙台空港周辺の写真を
右のサイドバー、マイフォトのアルバムで公開した。
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スカイレイダーは武器を吊ったまま翼を畳むことができる。
搭載作業はどうしていたのだろうと気になっていたが、
「余裕があるときに爆弾とかを吊っておいたあと、
翼をたたんで待機させておけば迅速に出撃できる」と
海兵隊の現場の連中が思いついたものらしい。
ただし想定外の使われ方だったので故障も頻発した。
その原因究明でそうした運用が明らかになったようだ。
すごいなと思うのは、規定違反だからと禁止するのではなく、
強度計算をやりなおして「大丈夫」と追認したうえで、
故障対策には軸部分の精度を高めて応力集中を解消。
結果として、さらに使いやすい飛行機にしたことだ。
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シミュレーターではなく本物のジェット機を
初めて訓練として飛ばしたのはサンタフェ空港。
3本の滑走路が中央1点で*形にクロスしている。
つまり関連する方位は6つある。
クロスウインドやベースレグも入れると12方位だ(涙)。
それでも使うのが1本だけならば簡単なのだが、
RW33でタッチ&ゴーをしたあとRW02で着陸しろとか。
教官が隣に座っていれば指さしてもくれるのだろうが、
グライダーみたいに後ろに座られて、
インターコム通して英語でギャンギャンいわれてもお手上げ。
飛行中のパイロットは三割頭とか六割頭とかいうけど
地上で考えてもクラクラする、酸欠だ、やばい。
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さて何という飛行機でしょうかと質問しようにも
軽飛行機は旅客機や戦闘機ほどメジャーじゃないから
変わったシルエットでしょと言っても通じるかどうか。
答は以前にも紹介した大西式OX-5スバルプレン。
こちらも既出のスズキ式SG-5と日大式N70シグナス。
SG-5はキャノピー付だが、オープン時代の方が好みだな。
そういえば、しばしば色を変える飛行機でもあった。
個人的には真っ赤が好きだったけど。
オシコシほどの規模じゃないけど、
昔は桶川あたりでたまにフライインも開催されていた。
濱尾豊さんの「しおからとんぼ」も桶川で撮影。
ただしイベントではなく、普段の桶川。
コクピットにカバーもかけずに、飛ぶところだったのかな。
別の用事で調布から飛んだついでにパパッと撮ったから
じっくり見てきたわけではない。
福井の前田利丸さんが手作りしたフラグラー・スクーター。
アメリカから図面を取り寄せて6年で完成させたという。
福井さんは2010年、83歳まで飛び続けたそうだが
航空身体検査に通らなくなって空からは引退した。
その後、この機体を引き受けてくれる人を捜しているという
記事を見つけたけど、どうなったのかは知らない。
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ボーイング787では、非常口のサインに
言葉に頼らないピクトグラムが使われるようになった。
米系航空会社以外は、たいてい採用している。
エアバスA350XWBでもピクトグラムが標準だ。
さらにA350XWBでは、ドアの外側にも表示がある。
「ここから逃げろって、機内に逃げるのかよ」とか
思われそうな気もするが、では787はどうか。
昔ながらの「非常口」「EXIT」の文字。
見慣れているせいか「機内に逃げろ?」とは思わないが
意味するところはピクトグラムと同じであるはず。
ならばエアバスの方が合理的なのではないか。
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撃墜した敵機の残骸を調べる人たち。
勝利の記念に機体の一部を持ち帰りますか。
というのはもちろん嘘ですが、零戦みたいな分割。
ULPのハイパーライト。大利根で取材したとき。
高橋淳さんが飛ばしてくれたのを空撮した。
けっこう速くてキビキビと飛ぶ機体だったから、
カメラ機はULPではなくてセスナ152(150?)を使った。
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沖縄にはもう何十回となく行っているが
まだ野性のハブに出くわしたことはない。
でも、ハブのいる島ではやはり注意はしている。
右側にバス停が見える。ヤブがあって、石垣もある。
島の人は「こんなところにはいないよ」と笑いそうだが
少し離れた、開けたところで1日に数本のバスを待った。
昔の流行歌みたいに「おんぼろ車」が来ると風情だなあと
ヨソ者の身勝手さで期待したけど、
うちの近所で走っている路線バスと同じ車種だった。
ちょっとガッカリしたけど、クーラーが効いていてよかった。
昔の流行歌の歌詞の一節でも書きたかったけど、
カスラックとかうるさそうだからやめておくよ。
ちなみにカスラックでググると、
なぜかJASRACというところが筆頭に表示される。
グーグル検索、また勝手なことして(笑)。
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まだ工事中だった頃の羽田空港D滑走路。
手前側は埋立てだが、多摩川の河口にかかる部分は
水の流れを妨げない桟橋構造になっている。
資料によれば、設計に考慮した最大の航空機荷重は
「A380(最大離陸重量400トン)」と書かれていて「?」。
A380の最大離陸重量は400トンではなく575トンだ。
最大離陸重量という言葉の使い方を間違ったのだろう。
実際には、D滑走路の運用については
機種にかかわらず機体重量400トンに制限されている。
機体重量が400トンを越えることもある旅客機は、
今のところA380と747-8くらいだけど、
これらも重量を抑えればD滑走路から離着陸できるはず。
一方で777シリーズでもD滑走路を使えないことがある。
最大離陸重量は351トンだからまだ余裕がありそうだが、
D滑走路には機体重量だけでなく、
メインギア1本あたりの最大荷重が139.5トン、、
タイヤ1本あたりは26.2トンまでという制限もある。
長距離便で重くメインギアが2本しかない300ERでは
こちらの制限を越えてしまうことがあるからだ。
というネタもずいぶん前に書いてあったのだが、
やはり月刊エアラインで「空港特集」をやるというので
ネタがだぶらんようにしばらく公開は控えることにした。
なんかデジャヴのような。
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ずいぶんにぎやかだなあとベランダを見たら
今度はスズメが2羽遊びに来ていた。
1羽(右)はまだクチバシの横に黄色が残っている。
親鳥よりも図体はでかいくらいだが、まだヒナだ(笑)。
このところ子連れのお客さんが多くて、うれしい。
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1977年の初渡米でリノ・エアレースを訪ねたのは
古い飛行機のレースなんか長くは続かないと思ったからだ。
現地で知り合ったリノ常連のプレスの人たちからは、
「新しいパーツもどんどん作ってんだから」と笑われた。
確かに40年もたった今もレースは続いている。
当時でも、日本から100人は来ていると聞いて驚いた。
まだ成田空港が開港する前のことだ。
西海岸往復の格安航空券は大卒初任給の2倍近かった。
僕は工事現場で半年バイトしてやっと旅費をためたのだが
十代の実家暮らしでなかったら、とても無理だったろう。
お金のある人ってたくさんいるんだなあと思った。
僕は食事がわりにリンゴで飢えをしのぐような旅だった。
そこで知り合ったFさんはF1クラスに参戦を予定していた。
そのために中古のレーサーを買ったが、
練習飛行の最中に墜落して亡くなった。
後に奥さんが開いた店のオープニングパーティーでは
大学を卒業したばかりだった僕も末席につかせてもらった。
1991年には、僕たちも金を出しあってリノに参戦した。
それが日本からの初参加ということになるが、
初挑戦をしたのは亡くなったFさんということになる。
やはりFさんの奥さんに挨拶した方がいいか相談しようと
1977年に会った常連カメラマンさんに電話したら、
本人はいなかったけど事情はよく知っている奥さんが出て
いまさら蒸し返さない方がいいだろうといわれた。
僕たちは前年の優勝機を買ったが、ヤバい飛行機だった。
クロモリのフレームには大きなクラックが入っていたし、
タブのワイヤーはヨレヨレで昇降舵がフラッターを起こした。
本当は改造までしたかったけど、修理が精一杯だった。
パイロットも不安そうだったけど、本番では優勝できた。
「前年の優勝機を買って優勝してもなあ」
予想通りそんな批判をするヤツは後を絶たなかったが、
前年のタイムを上回っての優勝だ、文句あるか。
まあ、勝っていなかったら、「よくがんばったな」とか
言ってもらえたのかもしれないけど、世の中そんなもん。
その後、常連カメラマンさんにはおっかない顔で
「おまえらよりも先に挑戦したヤツがいたんだからな」と。
そんなことは百も承知だから事前に電話したのですが・・・
といったら常連さんは「むう」という感じで黙ってしまった。
そのへんの話は奥さんから伝わっていなかったらしい。
写真のスキャンなんかしているせいで、
なんだか、いろいろ面倒くさかったことが思い出される。
ちなみに、このときの個人的な持ち出し金額は
1995年の零戦のときよりもはるかに大きかったけど、
「新車買った方がよかったかな」とは思っていない(笑)。
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何度か書いているけど、
「かぜたん」の記事はリアルタイムではなくて予約公開だ。
おおむね1カ月先までを目標に記事は書きためてあって、
日付が変わった頃にひとつずつ自動公開される設定。
だから「海に行きたい」とか公開したその日に
実は海の見えるホテルで泡盛を食らっていた可能性もある。
あくまで可能性の話ですけど。
あいにくヘソまで日焼けする状況ではなかったけど、
道すがらこんなのも撮れたらしい。
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