幽霊の正体みたり
学校ならどこにでも怖い話のひとつやふたつはある。
僕が通った武蔵野市立第四中学校にも、もちろんあった。
いまでこそ月並みな中学校舎になってしまっているが、
僕が通ったのは大学病院として使われていたという戦前の建物。
廊下をはさんで南北両側に教室が並ぶというのも怪しいし
(北側の教室の冬は本当に寒かった)、
クラブ活動を終えて人けのない校舎に入ったときなど、
ほんのりと薬品の匂いが残っているような気がした。
得体の知れない地下室に通じる階段があるというのも
(一度だけ見た。いつもは閉鎖されているのだ)
実におっかなかった。
ちなみにその大学というのは慶応義塾である。
いまは信濃町にある付属病院が、戦災で疎開したってことなのか。
卒業から30年以上へて、なんとなく調べてみた。
このあたりには中島飛行機の武蔵製作所があり、
日本の航空エンジン生産の一大拠点になっていた。
周辺には中島がプールや陸上競技場、学校なども整備した。
武蔵野市営プールや陸上競技場はそうした施設の名残である。
そして中島飛行機付属第一青年学校がもともとの四中の建物。
戦後、そこは戦災で施設不足に悩んでいた慶應大学に貸し出され
医学部の一部(基礎医学教室)が移転してきた。
正式には武蔵野分校だが、三鷹分校とも呼ばれていたらしい。
慶應大学は1951年までここを使ったあと施設を返却し、
それを中学校の校舎として改修。1953年に我が四中が開校した。
で、その「医学部」が「病院」だったのかということだが、
これについては当時、慶應で武蔵野分校にいらっしゃった
佐々木直亮先生(弘前大学名誉教授)に教えていただけた。
結論から書けばそこは病院ではなく、病室もなかった。
ただし「解剖」の教室はあったそうだ。
それがいろいろな「エピソード」のできた理由かもしれない。
たぶん四中では、いまも「怖い話」が語り継がれていることだろう。
その「夢」を壊してしまうのは忍びないと思ったが、
とりあえずひとつの事実として記録しておく必要はあると思った。
うちわネタでごめんなさい。
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