いろいろとアナログだった時代
妙にかわいい部屋でセッセと書き物をしている。
持っているのは、懐かしいラミーのオレンジ色の万年筆。
机の上にはコダクロームの箱とかキヤノンF-1とか。
西独だったフュッセンのカフェ・ペンション・ゲルリンデ。
そういえば、ここに1~2週間も滞在したのだった。
1983年ハンググライダー世界選手権の取材。
スポンサーのつかない取材だから、
金になるかどうかは成果次第。
ところが頼みの日本チームは予選で全滅(涙)。
やることもなくなりチューリヒまでドライブして、
友人が「女の子にあげたい」というチョコを買ったり(笑)。
閉会式のあとはレンタカーで夜通しパリまで移動。
さらに気球初飛行から200年記念のレースを取材した。
日本から参加の気球にはオリンパスが協賛していて、
出発前に僕は下心を持って「取材に行きますけど」と
オリンパスの広報に挨拶に行ったのだけど、
サポートどころか「勝手に撮るな」と言われてムカついた。
日本チームパイロットのT本さんも呆れていたけど、
以後しばらくオリンパスは相手にしなかった。
おまけにオープンにしていたパリからの帰国航空券が、
ぜんぜん予約が取れなくて大ピンチ。
クレジットカードも持っていなくて、財布は細るばかりだ。
シャンゼリゼにあったパキスタン航空営業所に通って3日目、
前に並んでいた日本人の男性は、カウンターの係員に
「ロンドンからなら乗れますよ」と言われていた。
まるで英語ができない人らしくて、
僕が通訳してあげたので事情がよくわかったのだ。
その人は「ロンドンからじゃな」とあきらめたけど、
次に僕が「ロンドンから乗ります」と言ったら、
「あなたの(安い)航空券では駄目です」と(爆)。
しかし、ロンドンからの方が席がありそうなのかと、
夜行の列車とフェリーを乗り継いでヒースローまで行き
(まだドーバー海峡にトンネルは通っていなかった)、
チェックインカウンターで「乗せて」と。
やはり「この航空券では乗れません」と言われたけど、
「わざわざパリから来たのに」と泣きまねして(うそ)、
チェックイン終了時に空席に押しこんでもらえたのだった。
係員さん、ありがとね、臨機応変の対応をしてくれて。
今ならクソなシステムがハネて、それで終りだったかも。
最初の1枚の写真から、いろいろなことを思い出した。
大学を出た翌年の、今くらいの季節だった。
| 固定リンク